あらゆるいのちは、はかなくも、かけがえのないものです。そのいのちのかけがえのなさに目覚め、お互いが御同朋として思いやりあうところに、仏教徒の生きる姿勢があります。
私たちは、病院や施設で死を迎えるようになりました。そのため、日常的に死にふれることが少なくなった私たちには、死に向かう状況を冷静に受けとめることが難しくなっています。病の苦しみや死の不安を抱えた患者とその家族は、心の救いを求めて思い悩みます。臨終もまた一つの平生であり、無常に向きあって真実を求める時期であるといえます。そんな時、私たち仏教徒が、その方々のそばにいて、その苦悩に耳を傾け、「願われたいのち」の尊さについて、深く気づきあうことができたなら、きっとその方々の心の安らぎになることでしょう。
浄土真宗本願寺派では、1987(昭和62)年に「ビハーラ活動」が始まりました。この「ビハーラ活動」とは、仏教徒が、仏教・医療・福祉のチームワークによって、支援を求めている人々を孤独のなかに置き去りにしないように、その心の不安に共感し、少しでもその苦悩を和らげようとする活動です。そして私たち自身が、苦しみや悲しみを縁として、自らの人生の意味をふりかえり、死を超えた心のつながりを育んでいくことを願いとしています。すなわち、「ビハーラ活動」とは、「生・老・病・死」の苦しみや悲しみを抱えた人々を全人的に支援するケアであり、「願われたいのち」の尊さに気づかされた人たちが集う共同体を意味します。
ご門主様は『教書』のなかで、如来の本願を仰ぎ、凡夫に目覚めた私たちの生活の姿勢について「自分だけの殻に閉じこもらず、自分自身がつくりかえられ、人びとの苦しみに共感し、積極的に社会にかかわっていく態度も形成されてゆくでありましょう。それが、同時に開かれた宗門のあり方でもあります。」と述べられています。「ビハーラ活動」はまさしく、人々の苦しみに共感し、本当の心の安らぎとつながりを育てる一つの活動であるといっていいでしょう。死の予感と、愛するものとの別れを通して、輝き始めるいのちの尊さについて、私たちは手をとりあって考え、助けあい、このビハーラのやさしさの輪を世界に広げていきたいと思います。
「ビハーラ」(Vihara)とは、古代インドにおいて仏教経典の記録などに使用されたサンスクリット語で、「精舎・僧院」「身心の安らぎ・くつろぎ」「休息の場所」を原意とします。1985(昭和60)年に、田宮仁氏は、そのビハーラという言葉を「仏教を背景としたターミナルケア(終末期医療)施設」の呼称として提唱されました。その背景には、誰もが抱える「生・老・病・死」の苦悩について、医療や福祉だけでなく、仏教徒が一緒になり、責任をもって応えていきたいという願いがあります。釈尊は「修行僧らよ。われに仕えようと思う者は、病者を看護せよ」と説かれています。
ふりかえってみると、釈尊の時代から日本の浄土教に至るまで、仏教徒が病人をあたたかく看取り、看取りを縁として、自己自身の人生を見つめ直し、皆ともに助けあって、死を超えたまことの仏法を求めました。源信和尚の『往生要集』に説かれる臨終行儀や看取りの場所としての「無常院」などは、浄土教独自の活動でした。
親鸞聖人は、「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟なり」と言われました。このような生きとし生けるものすべてのものとの一体感が、いのちの共感を生み、人々の悲しみ、痛みに共感する大悲の心に転じていくことでしょう。
親鸞聖人のみ教えは、浄土教の伝統を受け継いでいますが、阿弥陀仏の臨終来迎を期待するものではありません。ご消息には、次のように記されています。
「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、
来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。」(『註
釈版聖典』735 頁)
ここに親鸞聖人は、臨終の瞬間にみ仏の救いを待つ必要はなく、平生においてすでにみ仏に摂取不捨されているという救いを明らかにされています。それは、死に直面している人々の寂しさや不安を軽視したのではなく、いまここで、すでにみ仏に抱きとられ護られていることを明らかにすることによって、どのような最期を迎えても、必ずお浄土に往生するということを説かれたのです。
親鸞聖人は、実際に門弟の臨終を看取り、先だったご門弟の往生についてご消息の中で触れています。たとえば、親鸞聖人は、有阿弥陀仏にあてたご消息に、「 この身は、いまはとしきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候べし。」(『註釈版聖典』785 頁)とつづられています。「私はいまはもうすっかり年をとってしまいました。定めしあなたに先だってお浄土に生まれるでしょうから、あなたをお浄土で必ず必ずお待ちいたしましょう。」いう親鸞聖人の言葉です。死を超えたまことの世界と心強いつながりをここにうかがうことができます。
また親鸞聖人は、その中世当時、飢饉で苦しみながら亡くなった念仏者の死を哀れに思いながら、「まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、信心決定のひとは、疑いなければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智のひとも、をはりもめでたく候へ。」(『註釈版聖典』771 頁)というご消息をお書きになられています。ここで親鸞聖人は、死の迎え方の善し悪しによって、救いの是非を裁定せずに、悲哀に満ちた死を、尊い往生として受けとめておられます。
こうした親鸞聖人のみ教えに学びながら、「ビハーラ活動」は展開します。死の前に、患者と家族が死についてどう考え、人への愛情、自らの人生の意味をどう考えているかを傾聴し、無常を超えて真実のつながりを育み、深い安らぎを得ることを「ビハーラ活動」の願いとします。また人は愛するものとの別離を通して、多くのことに気づきます。その意味で、死別後、残された人々がもつ悲しみに共感し、亡き人との思い出を新しい人生の道しるべとして、ともに学んでいくところにもその願いがあります。ここより「ビハーラ活動」は、み仏に願われ護られたいのちの尊さに気づき、孤立した人々の心と心をつなぐ活動といってよいでしょう。
※理念制定時(平成11年度)の原文を掲載しております。