◆ビハーラ創造の時代 (1986年―1989年)
◆ビハーラ教区展開の時代 (1990年-2000年)
◆ビハーラ見直しの時代 (2001年―2008年)
宗門では、1986(昭和61)年にいち早く「医療と宗教(伝道)に関する専門委員会」を創設し、その研究結果は「医療と宗教」という教学シリーズの一冊に加えられています。同時に本山の宗務所において研修部所管で「ビハーラ研究会」を設置しました。しかし、研究会だけでは早く具体的に研修や実践態勢に入れないので、「ビハーラ実践活動研究会」と名称を改めて、会員募集を始め、まず研修を受ける形にしました。
一方、具体的な細部の研修プランやカリキュラム、そしてその指導体制を確立する必要があるので、「ビハーラ実践活動専門委員会」を設置しました。
この専門委員会で、学識者を中心に具体的な企画や資料作りをしました。すべてがクリエイティブ(創造的)な作業で、それだけに専門性や経験をもったブレーンの力で進めることができました。これらの委員たちも、日本に先行的にホスピスを取り入れた病院、浜松市の「聖隷三方原病院」を訪問し、原義雄院長のホスピスの講義を受け、ホスピス病棟の案内を受ける経験もしました。
ビハーラの基本構想やカリキュラムができると、「本願寺新報」などを通じて「第1期基本学習会」の受講者募集に入りました。2年間の研修が終わると、組織的に教区でビハーラ活動の実践が始まり、福井教区と大阪教区でビハーラ組織が結成されました。
このビハーラ活動の創生期には、こぞって新聞は論説・論評・ニュースなどに取り上げ、各TV局も積極的に取材して、広く報道されたことでした。
1990(平成2)年までに6教区でビハーラ団体が設立され、活動が組織的に展開されていました。しかし、同年になりますと一挙に5教区でビハーラ組織が立ちあげられました。それは、ビハーラ基本学習会の修了者が教区ごとに集まり、ビハーラ活動の実践場所を交渉し、組織的に活動したことによります。それは、修了時にあたって強く組織化の要請をしたことの結果でもありました。
ビハーラ活動の担当部署を本願寺では最初研修部所管で行っていましたが、「基本学習会」の修了者が出てくると、その活動者は社会部所管で行うことになりました。そして、2つの部署にわたる不都合から、養成も活動もビハーラ全業務が社会部となったのは、1992(平成4)年でした。1993(平成5)年には、本願寺を主会場にして、「第1回ビハーラ活動全国集会」を開催したことでした。
この時代で特筆に値するのは、「第6回ビハーラ全国集会」があらゆる条件から特長をもった形で成功したことでした。受け入れ態勢で長野教区と新潟教区の2教区協力で行われたこと、池の平温泉という自然環境に恵まれた場所と施設分散で行われたこと、教区内の大きな協力体制のもと地域も深くかかわる形で行われたことなどです。地方開催における地元に与えた影響力も大変大きなものがありました。
ネットワーク理論のもと組織ネットワークの発展のため教区ビハーラに期待をし、ビハーラ活動専門委員会に「活動ネットワーク専門部会」を設け、教区と中央の間の情報提供と集約の拡大強化を検討してきました。
一方情報ネットワークの構築として、本願寺ホームページの社会部の中にビハーラ活動の情報を提供して、アクセスする人たちの便宜に供することになりました。