一、アメリカで学んだこと
一九九八年九月から一年間、龍谷大学と皆様より貴重な機会を賜り、カリフォルニア大学バークレィ校、総合宗教大学院(GTU)において研究生活を過ごしました。多くのご縁の一つに、ボストン大学のジェンシン教授との出会いがあります。ジェンシン教授は、ハーバード大学においてチベット仏教の研究で博士号を取得され、現在、医療や生命倫理についての学際的な研究を進めておられます。ジェンシン教授が「異文化間の相互理解から生まれる医療」について学会発表する際、「患者における医療と宗教」の分析を共同で行いました。
アメリカの医療においては、異なる宗教・文化をもった患者をどのように理解するかということが一つの課題です。日本と比べ宗教的背景をしっかり確立しているアメリカでは、医学的な治療と宗教の癒しの対立もしばしば起こります。アメリカはさまざまな民族の集まりですが、私の出会ったアメリカ人は、自分と異なった文化や宗教を尊重しようとする方たちでした。相手の立場を自分の価値観から憶測するのではなく、一人の個性ある人として理解しようと努めるわけです。異文化の方々と接するときに大切なのは、相手の文化や宗教的背景に対する敬愛と、自分自身が依り所とする文化・仏教についてきちんと語れることであると、私自身改めて学びました。
二、宗教者の役割
ここでは、ジェンシン教授からの質問とそれに対する私なりの回答をご紹介します。日本では宗教は医学的援助を求める人の望みにどのように関わりますか。
またある宗教は、医学的治療に特に消極的であるようなことはありますか。日本で市立、県立、国立などの公的な病院では、宗教が医学的援助に関わることは、システム上ありません。病院内において、宗教教団の伝道や折伏、回心の勧誘は認められていません。しかし患者個人の希望があれば、宗教者の訪問は制限されていません。その場合の宗教者の役割は、患者にとってのよき聞き手になり、死の不安をはじめとする患者と家族の全人的な痛みを少しでも和らげることです。
国際保健機関(WHO)によると、治癒の見込みの少なくなった患者の全人的な痛みとは、①身体的苦痛(痛み・日常生活動作の支障)、②精神的苦痛(不安・孤独感・恐れ・うつ状態・怒り)、③社会的苦痛(仕事上、経済上の問題・家庭や人間関係・遺産相続)、④宗教的苦痛(人生の意味、死生観への問い・死の恐怖・罪の意識・神や仏への救いの追求)が重なった苦しみを意味します。その中で④宗教的苦痛(スピリチュアル・ペインの訳語。霊的苦痛とも訳される)とは、「どうして私は死ななければならないの」「私の人生の意味は何だったのか」「死んだら私はどうなるの」など、まさに本人のいのちの根本に関わる苦しみです。また、家族の立場からすれば、「どうしてお母さんは死んでしまったの。どこに行ったの」「なくなった子供にあいたい」という深い悲しみです。日本でもこのような患者と家族の根源的な痛みに応えていくことが、宗教者に求められ、医療・福祉・宗教のチームワークによる「ホスピス・緩和ケア」「ビハーラ」とよばれる活動が進められています。
三、医療と宗教の三つの関係
さて日本の宗教は、次の三つに分類することができます。
第一は、願望充足タイプの救いを説く宗教です。超自然的な力によって病気治癒を祈願したり、祈祷師による祈りや、特別の奇蹟を信じたりすることによって、病気を治そうとします。この宗教の場合、患者が医学的な治療をさけ、宗教的な祈祷、まじない、民間療法だけにたよる場合があります。
第二は、神の定めなどの教会原則を信じて自己制御をめざす宗教です。この運命論型の宗教は、絶対者の意志を信じ、患者の病気を神の定めた運命や摂理として受けとめて、心を切り替えることをすすめます。病の苦しみそのものに、宗教的な意味を見いだしたり、現実をあきらめ運命として受け入れるという忍耐が、この宗教の特徴です。
第三の宗教は、普遍的な真理を学び、心の成熟をめざす宗教です。病気もまた一つの人生の姿としてありのままに自覚し、その現実の苦しみから解放された心を確立していくことをめざしています。仏教徒(浄土真宗)の多く住む地方には、薬の研究や製造が盛んに行われたといわれています。なぜなら浄土真宗は、病気を祈祷によって治すのでもなく、運命としてあきらめるのでもなく、医師に診断された病気として理解し、医療に対して敬意を示したからです。
仏教は、あらゆる存在が無常、無我であり、相互依存して、生かされて生きていることを教えています。何かに執着した固定的なものの見方から自由になることを示したものです。こういった普遍的な真理を学ぶことを通して、患者の病気が誰のせいでもなく、自然な道理としてありのままに受けとめながら、病や老い、死の苦しみを越えた真実に目覚めていくことをめざします。患者や家族は、悲しみを悲しみとして抱えながら、苦しみの闇をさらにつきぬけて、生死に左右されないみ仏に抱きとられ、深い安らぎや感謝の心が少しずつ育まれてくるといっていいでしょう。親鸞聖人が、有阿弥陀仏にあてたご消息に、
この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し
候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候べし。
(『注釈版聖典』七八五頁)とつづられています。「私はいまはもうすっかり年をとってしまいました。定めしあなたに先だってお浄土に生まれるでしょうから、あなたをお浄土で必ず必ずお待ちいたしましょう」という意です。親鸞聖人が死を超えたまことの世界を見いだし、人と人との心強いつながりを育んでいることをここにうかがうことができます。
このような私の応答に対し、ジェンシン教授は、浄土真宗と医療とがお互いに領域を認め、ともに助け合って高めようとする姿勢に学びたいとおっしゃっておられました。
宗報(平成十一年十一月・十二月号)の不死川浄様の文章を拝見しながら、御門主が「生活が順調なときはみむきもしなかった人が、ひとたび自分の力では処理できないものに出会いますとき、不合理なものにたよらざるをえなくなるという人間の姿こそ阿弥陀如来のご本願のめあてになるべきものです」とご教示なされていることを知りました。この心を、ビハーラ活動に携わる姿勢としてもっておくことが大切に思います。病と闘っている方々は、今も寂しさと不安の中で何かの依り所を求めているからです。「ビハーラ活動」とは、み仏に願われ護られたいのちの尊さに気づき、孤立した人々の心と心をつなぐ活動です。ビハーラ活動は病院や施設にとどまらず、災害支援までさまざまに展開しています。これからも私たちは、人間の生きていることの意味をしっかりと学び考えていく必要があります。